偉人展開催にあたって
私たちの住むこの人吉の歴史と風土は、これまで多くの偉人たちを輩出してきていますが、広く世間に語られず歴史の中に眠ってしまっている偉人も多いようです。
郷土が生んだ偉人を顕彰し、時代背景やその功績、人となりを語り継ぐことは将来にわたる私たちの責務であり、郷土をより理解するといった意味でも大きな課題であると感じています。
偉人の人間形成や業績を鮮明にすることによって、今一度、ふるさと人吉の風土、歴史、文化などを見つめなおし、「知る」ことで、21世紀に何をなすべきか、何を残していくべきかを、市民の皆さまとともに考え、さらに飛躍、発展する契機にしたいと考え、開催しました。
人吉市の偉人たち
- 一井 正典(いちのい まさつね)
- 犬童 球渓(いんどう きゅうけい)
- 川上 哲治(かわかみ てつはる)
- 髙木 惣吉(たかぎ そうきち)
- 東 白髪(ひがし はくはつ)
- 日野 熊蔵(ひの くまぞう)
業績
一井正典(いちのい まさつね)
文久2年(1862)から昭和4年(1929)
現人吉市寺町出身。明治期の歯科界で活躍した、いわゆる外国留学系の歯科医師。金冠の術式、無痛麻酔薬を日本に導入した貢献度は高く評価されている。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇の皇太子時代と歴代の天皇の宮内庁侍医を長期間務めるとともに、文部省歯科医師試験委員、および医術開業試験委員等の要職も勤める。
また、歯科界のみならず日本の政財界人にも交流が深いことや、園芸、果樹栽培の分野にも多くの才能をもつ。
犬童球渓(いんどう きゅうけい)
明治12年(1879)から昭和18年(1943)
球磨郡藍田村(現人吉市西間下町)出身の音楽家。本名は信蔵。代表作「旅愁」、「故郷の廃家」は日本全国でも愛唱されている。人吉市名誉市民。
川上哲治(かわかみ てつはる)
大正9年(1920)から平成25年(2013)
球磨郡大村(現人吉市南泉田町)出身。元巨人軍選手・監督。東京巨人軍一塁手として選手時代18年間打撃王として努力精進し、その間通算打率3割1分3厘。豪快な打法から放たれる弾丸ライナーは賞賛の的となる。最高殊勲選手3回、首位打者5回。昭和40年12月野球の殿堂入り。人吉市名誉市民。
髙木惣吉(たかぎ そうきち)
明治26年(1893)から昭和54年(1979)
球磨郡西瀬村(現人吉市矢黒町)出身。苦学のすえ海軍兵学校に進み、任官後はフランス駐在武官、海軍省調査課長、同教育局長などの要職を歴任した。戦争中は、日本の敗戦を見通し、ひそかに早期和平の道筋を模索。戦争末期には海軍首脳の密命を受け、皇族や重臣、軍部などの間で終戦工作に奔走した。
東 白髪(ひがし はくはつ)
寛延元年(1748)から文政12年(1829)
細井平洲(江戸時代最大の学者、米沢藩の藩政改革に成功した上杉鷹山の師として有名。)の門下生で、人吉藩に「習教館」・「郷義館」といった教育の場を創設。「習教館」の初代教授(校長)として平洲の説いた実学を人吉藩において実践。庶民のための巡回講話を行うなど教育に取り組む一方、政治の補佐役も努めた。
日野熊蔵(ひの くまぞう)
明治11年(1878)から昭和21年(1946)
人吉市寺町出身。日本人として初めて飛行機を飛ばした人物。明治43年航空機研究のためドイツへ留学、半年後ハンスグラーデ式単葉機を購入し帰国。同年12月に初飛行。熊蔵は、飛行機だけでなく、各種兵器の研究にも力を発揮、その発明は多岐にわたる。