郷土の偉人である犬童球渓は、その生涯で「故郷の廃家」「旅愁」をはじめとした、360余編の作詞作曲をしました。
市ではその偉業を顕彰するとともに、地域文化振興・普及のため、毎年「犬童球渓顕彰音楽祭」を実施しております。
人吉に生まれ、日本の近代音楽に大きな功績と影響を残した球渓の生涯に触れていただきたく、ご紹介いたします。
犬童球渓先生の生涯
犬童球渓は、本名を信蔵(のぶぞう)といい、明治12年3月20日、藍田村(現在の人吉市西間下町)で、農家の次男として生まれました。
明治30年、熊本師範学校に入学し、音楽の指導者としての勉強をした後、宇土郡網田(おうだ)小学校に勤務しました。壊れて放置されたままのオルガンを修理して授業に活用するなど、熱心に音楽の授業に取り組みました。
明治35年5月、球渓の網田小学校での音楽教育が高く評価され、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)への入学を推薦されました。当時、東京音楽学校への推薦は、毎年各県から1名だけが認められていました。
ところが間もなく、生活面で頼りにしていた実兄が亡くなり、球渓は自分の学費や家族の生活費を工面することになります。大学に通いながら外国曲の写譜や翻訳の仕事を続けるなど苦労を重ね、音楽学校を卒業しました。卒業後は旧制兵庫県立柏原(かいばら)中学校に勤務。そのころ音楽は唱歌といい、女学校や小学校では盛んでしたが、男子だけの中学校では必修ではなく、また西洋音楽は軟弱だと授業妨害があったことから、退職することとなりました。しかし退職の翌年には、柏原中学校から依頼を受け、校友会誌へ「佐渡記行」を寄稿し、後年には校歌の作曲を行っております。
その後、新潟高等女学校に赴任することとなった球渓は、その地で「旅愁」や「故郷の廃家」を発表しました。
明治41年に熊本県立高等女学校に赴任、大正7年に人吉高等女学校の音楽教師として招かれ人吉に帰ってきました。
人吉では音楽を教える一方で作詞にもうちこみ、かつて覚えた外国の曲に次々と詞をつけ、すばらしい名曲に仕上げました。また、郡内の学校の校歌や人吉盆地をとりあげた歌も多く作っています。
56歳で退職後、64歳で亡くなるまで、人吉の音楽教育に貢献しました。球渓が残した歌は400曲以上、家族のつながりの大切さ、自然や故郷の大切さを、すばらしい歌をとおして、わたしたちに伝えています。
犬童球渓先生の年表
犬童球渓先生のエピソード
ここでは球渓のご子孫から伺った、いくつかのエピソードをご紹介いたします。
渡小学校代用教員時代
渡小学校まで徒歩で通う約6キロメートルの道すがら、美しい声で歌を歌いながら、あるいは草笛をふきながら歩いていたという話をしてくれた人がいる。
熊本師範学校の生徒時代
仲間と一緒に球磨川沿岸道50キロメートルを夜中に徒歩で帰郷することもあった。鉄道は未開通
そんな若者を世間は頼もしく眺めてくれていたらしい。
東京音楽学校への進学
熊本県に東京音楽学校新入生の推薦枠がきた。そこで師範学校在学中から「我が校のベートーベン」と言われ、当時、宇土郡網田小学校に勤務していた球渓が推薦されることとなった。
県からの給費生とはいうものの、多額の費用を伴うこの進学については、恩師・地元の資産家・親戚の援助あって実現することができた。
これが球渓の「故郷への恩返し」という生き方の原点となった。
東京音楽学校時代の武勇伝
宿舎(有斐学舎)に侵入した泥棒に独り立ち向かい、これを投げ飛ばした。同室の竹下俊夫氏(のちの熊本県立工業学校長)に「おい竹下!おれが勝ったぞ!」と叫んだという。
先生は相撲が好きで、晩年もラジオの放送にかじりついて聞いていた。
熊工の寮生だった三男信夫が竹下校長から聞いた話
同郷の後輩への応援
大正5年、吉田清風(のちに尺八家として活躍、玉名郡長洲町出身)は、朝鮮で意気投合した宮城道夫(のちに箏曲家として活躍)と「東京に出よう」と約束したものの伝手がなかった。そこで熊本在住の球渓を頼り、東京女子音楽学校長をしていた山田源一郎あての紹介状を書いてもらい上京することができた。
吉田清風は昭和24年、自分の死の前年に球渓の墓前で尺八の演奏を捧げている。
人吉高等女学校への転勤
「故郷への恩返し」という意識からか「東京へ出てこないか」の誘いを断り続け、熊本県立高等女学校に勤務していた球渓だが、大正7年、人吉に郡立の女学校ができることとなり喜んで転勤することとなった。
県立・郡立などにはこだわらない感覚の持ち主だった。