令和2年7月豪雨犠牲者追悼式を開催しました

更新日:2022年7月4日

 未曽有の豪雨災害から2年を迎えるにあたり7月3日、カルチャーパレス小ホールにて令和2年7月豪雨犠牲者追悼式を執り行いました。

 追悼式では、参列者全員で黙とうをささげたあと、市長及び県知事がお亡くなりになられた方々への哀悼の意と被災された全ての皆さまへお見舞いを述べた後、多くの支援に対する感謝とともに、被災者にしっかり寄り添い復興を成し遂げていく決意を述べました。最後に遺族を代表し、父を亡くした永尾禎規さんが「昭和40年の大水害で、家族を守ってくれた父を今度は私が助けなければならなかったのに、助けられなかった無念さは今も心に残ります」と語り、参列者は献花台に花を手向けて犠牲者の冥福を祈りました。

 新型コロナウイルス感染症予防対策の観点から参列者はご遺族等に限定しての開催となりましたが、式典後は会場を開放。一般献花の時間を設け、市民の方々から献花をいただきました。

 

追悼式の様子の写真
追悼式の様子の写真

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黙とうの写真
黙とうの写真

黙とうの写真

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市長式辞の写真
市長式辞の写真

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県知事式辞の写真
県知事式辞の写真

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ご遺族代表の写真
ご遺族代表の写真

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ご遺族代表の言葉を読み上げている代表者様のアップの写真
ご遺族代表の言葉を読み上げている代表者様のアップの写真

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献花をしている写真
献花をしている写真

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献花台の前で手を合わせている写真
献花台の前で手を合わせている写真

献花台の前で手を合わせている写真

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追悼式次第

  午前10時  黙とう

  • 主催者式辞    人吉市長・熊本県知事
  • ご遺族代表のお言葉 
  • 献花
人吉市長 式辞

 未曽有の被害をもたらした一昨年の豪雨災害から2年を迎えようとしております。本日、御遺族や御来賓の御臨席を賜り、令和2年7月豪雨犠牲者追悼式を執り行うにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

 かの豪雨では、災害関連死を含め、21名の尊い命が犠牲となりました。豪雨により亡くなられた方々の無念さ、そして、最愛の御家族を失われた方々のお気持ちを思いますと、今でも胸が苦しく、哀惜の念に堪えません。本市を代表し、改めて哀悼の意を捧げます。

 本市を襲った記録的な豪雨は、それまでの穏やかな日常を一変させ、私たちの生活に多くの傷痕を残しました。球磨川に沿って広がる中心市街地をはじめ、市内各所にうねりを伴った濁流が押し寄せ、2,300を超える住家、1,000近くのお店やホテルが被災するなど、壊滅的な被害を受けました。更には、農業や林業、商工業や観光業など、さまざまな分野、産業に多大な影響を及ぼしたことから、日々の暮らしやなりわいなど、本市は現在も復旧の途上にあります。

 古くは青井阿蘇神社の門前町に始まり、鎌倉時代より相良氏によって治められてきたこの地は、九州有数の大河、球磨川と常に向き合う歴史を歩んでまいりました。その永い歴史の中で、本市は数々の自然災害を被ってまいりましたが、なかでも洪水などの水害は、この地域に住む人たちを大変苦しめてきました。特に、今回の豪雨は過去何十年かの記録の中でも最も激しい雨を降らせたと言われており、普段は平穏な球磨川のあまりの変わりように、愕然としたことを今でも思い出します。

 本市では、現在も、約1,300名の方々が応急住宅での生活を余儀なくされています。この被災された方々に一日でも早く安定した生活を取り戻していただくためには、何よりも、住まいの早期再建が必須であります。併せて、農地や山林の復旧、生業などの事業を行うために欠かせない店舗等の再建を早急に進めていくことも必要であります。

 現在、豪雨災害によって傷ついた人吉市を、早く元の姿に戻し、更には災害前よりも暮らしやすいまちにするため、市民の皆さまと共に、日々、復興まちづくりに取り組んでいます。そのための大きな方針となる復興まちづくり計画を市民との協働により策定するなど、一歩ずつではありますが、着実に復興の歩みを進めているところです。

 豪雨災害は、人命、財産など、私たちから大切なモノを奪い去っていきました。しかしながら、この悲しみを乗り越え、常に私たちの傍にあり、豊かな自然と恵みを享受してくれる母なる川、球磨川と共に、慣れ親しんだこの地で再び暮らしたい、この気持ちは、人吉に住む皆さま、共通の想いではないかと思います。

 私は、この人吉に住む人々の生命と財産を守ることを第一の信条とし、日々の仕事に取り組んでまいりました。これまで本市が経験してきた災害の歴史、また、先人たちが残してくれた災害への備えや心構えなど、数々の教訓に今一度目を向け、災害のないまち、市民の皆さまが安心して暮らせるまちを目指し、これからも最善の努力を続けてまいることを、ここにお誓い申し上げます。

 結びに、御霊の永久に安らかならんことを改めてお祈り申し上げるとともに、御遺族並びに御臨席頂きました皆さまの御健勝を心からお祈り申し上げ、私の追悼の言葉といたします。

令和4年7月3日 人吉市長 松岡 隼人

熊本県知事 式辞

 令和2年7月豪雨犠牲者の追悼式に当たり、犠牲となられた方々の御霊に対して、熊本県民を代表し、謹んで哀悼の意を表します。

 未曽有の被害をもたらした豪雨災害から、明日で2年が経過します。濁流に飲み込まれた家屋や、土砂や泥水に覆われた街並み、寸断された道路や鉄道など、発災直後の深く傷ついた「ふるさと熊本」の姿が、今なお脳裏に焼き付いて、決して忘れることができません。

 この豪雨災害によって、県全体で災害関連死を含む67名の尊い命が失われ、今も2名の方が行方不明となっています。かけがえのない家族や愛する人を亡くされた方々のお気持ちを思うと、悲痛の念に堪えません。改めて、御遺族の皆さまにお悔みを申し上げるとともに、被害に遭われた皆さまにお見舞い申し上げます。

 私は、知事として、このような被害を防ぐことはできなかったのか、自問自答を繰り返しました。そして、二度とこのような被害を生じさせてはならないと固く決意し、一日も早い復旧・復興を果たすことを心に誓いました。

 これまで、被災された方々の一日も早いすまいと、なりわいの再建を始め、道路・鉄道など交通インフラの復旧、産業・経済の再生などに国や市町村との連携のもと、全力で取り組んで参りました。これらの取組みにより、一歩ずつではありますが、創造的復興が着実に進んでいます。

 球磨川流域の復旧・復興と治水の方向性の検討にあたっては、住民の皆さまからさまざまな御意見をお伺いしました。そして、自然環境との共生を図りながら、流域全体の総合力で安全・安心を実現していく「緑の流域治水」に取り組むことを、一昨年11月19日に表明しました。

 現在、国や関係市町村と連携して、「命と清流を守る」新たな流水型ダムを含めた「球磨川水系河川整備計画」の策定に取り組んでいます。流域の皆さまの安全・安心を1日も早く実現するため、引き続き迅速かつ丁寧に進めて参ります。

 ここ人吉市では、中心市街地周辺において、復興まちづくりが進められています。今年3月には青井地区で、6月には紺屋町での土地区画整理事業の都市計画が決定されました。賑わいを取り戻し、災害に強いまちとなるよう、住民の皆さまの御意見を伺いながら、引き続き人吉市と連携して事業に取り組んで参ります。

 また、県内有数の観光地である人吉市の観光面での復活も重要です。市内の宿泊施設の営業再開が進み、球磨川下りも近々再開される予定と伺っています。県としても、球磨川の豊かな自然を生かしつつ、地域経済の活性化につながるような、観光地域づくりを後押しして参ります。

 人吉市では、現在も1,300名を超える方々が、応急仮設住宅等での生活を余儀なくされております。この方々のすまいの再建を1日も早く実現しなければなりません。私は、これからも被災者お一人お一人にしっかりと寄り添い、「誰一人取り残さない」という強い決意で、被災地の創造的復興と、被災者の住まいの再建、ひいては心の復興に全力で取り組んで参ることをここにお誓い致します。

 最後になりますが、これまで賜りました、国や人吉市をはじめ全ての関係する皆さまの御支援と御尽力に、心から感謝申し上げるとともに、犠牲となられた皆さまの安らかならんことを改めてお祈り申し上げ、私の追悼の言葉といたします。

令和4年7月3日 熊本県知事 蒲島 郁夫
ご遺族代表の言葉(永尾禎規様)

 令和2年7月4日、この日が大水害となり、これほどまでに多くの被害が出るとは、私を含め多くの方がそう思ったのではないでしょうか。

 災害当日の早朝、前日から続く異常なまでの雨の降り方に「よく降るなー、何もなければ良いけど」と思っていると、外から防災無線が鳴りひびいてきました。しかし、何を伝えているのかはよく聞こえず、私は「被害が出はじめたのだろうか」程度に思い、いつもの朝と同じように会社へ行く準備をしながら7時頃、外へ出てみると家の入口から5,60メートルの所にまで水が迫っているのが目に入りました。

 「これは、やばいぞ」。そう思った私は、両親に避難の必要がある事を伝え、再び、外に出てみると、もう家のすぐそこまで水が来ていました。

 家に戻った私は両親に「早く逃げる用意を」と言い、作業ズボンと雨具を着ている間に水は家の中に入ってきて、私が動き回っているうちにドンドン水かさが増してきました。

 「これは、あぶない」と思った私は、両親を裏庭の屋上、物干場に上げようと思い、まず、母を背負って、水につかりながら必死に家の裏まで行き、そこに母をおろして、今度は父を、と思い家の中に引き返し、父を助けようとしましたが父はなかなか理解してくれません。

 私は父の手をひいたり、おんぶをして連れ出そうとしようとしましたが父は言う事を聞いてくれず、何回か家の中と裏庭を往復して母を屋上に上げ、再び父の元に戻って手を引きましたが、そのうち父は「もうヨカ、もうヨカ」と言いだしました。

 最早、一人では無理だと判断した私は助けを求めて外へ出ようとしましたが表からは出られません。我が家は相良藩時代からの町家で細長い構造になっているために逃げ場がありません。裏へ回り、トタンの塀を1メートル位の造林鎌を使って刀で切る要領で右へ左へとケサ切りに切り、下からも切上げてようやく塀を切り破って鍛冶屋町へ抜け、周囲の人に助けを求めようとしましたが、みんな、それぞれ逃げる準備をしている様子で、それどころではありませんでした。

 昭和40年の大水害の時、消防団員だった父は市民の生命と財産を守りながら家族を守り、幼かった私を抱きかかえて避難させ、助けてくれました。当時2才になる前の私にその記憶はありませんが、父からそのように、その時の話を聞かされていました。

 その父を今度は私が助けなければならなかったのに助けられなかった無念さは今も心に残ります。

 この豪雨災害では多くの方々が家族の命や住まい、財産を失われたと思います。被災されたすべての方が早く元の生活に戻り、穏やかに過ごされます事を心から祈念いたします。

 そして、これまで救援・救護活動・復旧作業、各種ボランティアの方など多くの方々の助けを頂いてまいりました。御支援頂いたすべての方々に感謝申し上げます。有難うございました。

 私も、いまだ仮設住宅暮らしですが、近い将来、また元の場所に我が家と会社の主軸である本店を再建しようと、今、準備している所です。

 そこから又、再出発し、にぎわいのある人吉を、そして人吉球磨全体が活性化して、うるおいのある町になる事を望んでいますし、私も微力ながらその一助になれればと思っています。

 最後に、災害はいつやってくるかわかりません。

 その為にも、この豪雨災害から得た事を教訓とし、次の災害に備え、少しでも被害が最小限となるよう経験した事を次世代へ伝え、地域の安全のため、協力して参りたいと思います。

令和4年7月3日 遺族代表 永尾 禎規


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