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ジュウグリット先生 一井正典(いちのい まさつね)

2012年05月28日

1 ジュウグリット先生ってどんな人?

 世界的にも有名な医学博士「野口英世」に大きな影響力を及ぼした近代歯科医学のパイオニアが人吉にいました。人吉出身の一井正典です。
 正典は、今から150年ほど前の1862(文久2)年に、父・一井五郎左衛門、母・登奈の長男として、人吉市寺町に生まれました。現在、人吉カトリック教会や人吉幼稚園が建ちならぶ一角に、生誕の地としての記念碑が立っています。

日本における一井正典の先覚性
アメリ力本土で日本人開業歯科医師第1号及び日本人初のアメリ力歯科医師会会員であった。
日本人として初めて歯科大学の助教師を勤め、アメリ力国内の歯科医師会からも招聘される医術的手腕を有した。
日本に従来なかった新しい医療であるポーセレン術、金冠術、架工術を導入・普及した。
笑気麻酔の公開実験、電気応用無痛治療法、局所麻酔剤開発など無痛麻酔法、麻酔薬を導入、開発し歯科麻酔学の発展に貢献した。
明治・大正・昭和期の三代の天皇の侍医御療掛りを務めた。    など

2 西南戦争の前後

 正典が、現在の中学生と同じ年齢の頃、西南戦争が始まりました。当時の人吉では、「鹿児島に不穏の動きあり」という噂で、考えが二つに分かれていました。
 それは、以前から薩摩と交流が深い者たちがいう、「薩摩が兵を挙げるときには、俺たちも必ず付いていく」という動きと、それに対して「神風速の乱(※1)や佐賀の乱(※2)のようになっては、必ずつぶされる。早まってはならぬ」という動きでした。
 しかし、正典が生まれた年に起きた「寅助火事」の時に、何もしてくれなかった細川藩に対して、五千両の復興資金と資材、大工、左宮、瓦屋、鍛冶屋を送ってくれた島津藩に対する恩義に報いねばと、立ち上がる者が多くいました。

※1 神風連の乱:1876(明治9)年に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。
※2 佐賀の乱:1874(明治7)年2月に江藤新平らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族の反乱の一つ。

 いよいよ西郷隆盛が挙兵し、大雪の積もる中、熊本城へと向かう途中で、立ち寄ったのが人吉でした。球磨川下りで八代に出るために、一晩宿をとったのが、第一中学校の正門横にある武家屋敷でした。その時に、西郷隆盛の横についてお世話をしたのが、15歳になる正典でした。正典は、西郷隆盛に「お供をさせてください」と懇願しましたが、自分の子どもとかわらない若者まで連れて行くわけにはいかないと断られています。
 西郷隆盛たちを見送った後、人吉からも薩軍に参戦しようという動きが高まりました。そんな中、一井家の隣に住んでいた丸目徹(剣豪丸目蔵人佐の一族)が、人吉隊を編成する際に一井家の長男である正典にも声をかけてきたことで、正典は人吉一番隊の最後に加えられることとなりました。
  人吉一番隊 総長 神瀬鹿三
           監軍 瀧川俊蔵
           応接係 田代醇・丸目徹・家城重道
           小隊長 束九郎次・新宮嘉善
           新加兵 一井正典 ほか など計140人で編成
 人吉一番隊は、明治10年3月4日に出陣しています。当時15歳の正典は、最年少で、の参戦でした。これ以後の正典の西南戦争での記録は残っていませんが、人吉一番隊で供にしていた叔父丸目徹と同じ行動をとったものと理解することができます。
 丸目徹の「従軍日記」では、熊本城包囲戦や田原坂、吉次峠の激戦に参加したのですが、政府軍の勢いに押され、4月には人吉に退き、西郷隆盛とともに人吉で防戦しています。しかし、同じ年の5月5日には政府軍に降伏しています。その後、政府軍に編入されて、逆に西郷隆盛を追って宮崎まで進出し、10月の城山の陥落で許されて、人吉へ帰り、その後山江村の山田に居住し明治12年より球磨郡役所の筆耕雇員となっています。しかし、2年で退職して、明治15年から1年間、佐賀の木原儀四郎の塾に入って、漢学を学んでいます。この時、正典は20歳になっていました。その後、人吉に帰ってきて商売を始めましたが、長続きはしませんでした。農業も、筆耕雇員も、漢学も、商売もすべて続かない“なぐれ士族”といわれて、二十歳を超えた正典の目標は、上京することでありました。九日町で商売を営んでいた江嶋五藤太と付き合うようになった正典は、五藤太の勧めで上京を決意し、22歳の時にふるさとを出て、警視庁につとめています。
 さらに向学の望を捨てきれず、牧師美山貫ーの世話で1885(明治18)年、23歳の時に、米国船アラピック号にて渡米することとなりました。

3 アメリカ在留時代の先生は?

 渡米後、サンフランシスコで高山紀粛(現東京歯科大学創設者)と片山敦彦を育てた歯科医ドクトル・ヴァンデンボルグの家に住み込み農夫として働きながらも、神学博士ドクトル・テンプルに師事し、英語を学ぶこととなりました。やがて、ヴァンデンボルグより歯科学の修業を勧められ、明治22年、フィラデルフィア・デンタルカレッジに入学し、歯科医学の道に進むこととなりました。この時、正典27歳でした。
 この時期の学費は、ミセス・ルカス女史の世話で当地区の教会から贈与されていました。しかし、この頃の日本人学生の中でも、正典は生活費、学費ともに苦しい生活を送っていたため、第2学年次には休学を決意していましたが、学友の温情により、続けて就学することができました。苦学の末、1891(明治24)年春、トップの成績で卒業しました。
 卒業後は、同大学の助教授となり、日本人として初めてアメリカ本土で歯科医院を開業し、米国歯科医師会会員となりました。またアメリカでは、福沢桃介(福沢諭吉の養子)、林民雄(後の日本郵船専務)などの在米日本人と交流しています。
 翌年には、オレゴン州ポートランド歯科医師会より招かれ、「加工術及び金冠継続術」の教授を務めるために西海岸へ移り住み、同地に2年間開業しています。
 3年後の1894(明治27)年8月にそこをやめ、同じ年の9月に、10年ぶり日本へ帰国することとなりました。

4 日本での活躍

 1894(明治27)年9月に、32歳で帰国し、翌年には東京の神田神保町に開業しています。また、その傍ら、高山歯科医学院(現東京歯科大学)で器械学(歯科補綴学)の講師をつとめ、同年1月には東京の瑞穂屋で、日本で最初の笑気麻酔の実験を行いました。また、1897(明治30)年6月に器械購入及び電気応用歯科無痛治療研究のため、再度渡米し、同年10月に帰国しています。帰国後は、電気応用無痛法の開発・応用、局所麻酔薬の開発など歯科麻酔の発展に寄与しています。
 さらには、器械学分野での最新のポーセレン医術・金冠術・医療器械の開発導入及び指導を行っています。
 その後、文部省医術開業試験委員、宮内省侍医療御用掛を勤め、明治、大正、昭和の三天皇及び皇族方の診療に従事しています。また、相良家、細川家や岩久弥(三菱、岩弥太郎の長男)など、熊本や米国の友人らの診察も行い、特に日本人初飛行の日野熊蔵のプロペラ事故の時も正典が治療しています。
 昭和2年には、従五位に叙せられました。
 正典は、日本歯科医学の先覚者であるのみならず、後進の教育にも熱心で東京肥後県人会を主催するなど、多くの熊本県出身者を育てました。
 さらには、園芸、狩猟などにも秀でた才能があり、アメリカより園芸新種の輸入栽培や、狩猟犬の導入などの農業方面の改良や育成にも努めています。

ジュウグリット…?
 正典と野口英世は、高山歯科医学院で同じ時期講座を担当していました。そのころこんなエピソードがありました。
 「野口は講義中、福島県の方言で『ここんとり』という言葉を頻繁に使ったが、『此処』という意味のその抑揚がおかしいと、学生たちは陰でよく真似をしてはしゃいだという。
 一方、一井は熊本県球磨地方の方言で『ジュウグリット』というのを頻用したらしい。例えば『口のまわりをジュウグリット』という風に。そこで学生たちが、『先生、ジュウグリットというのは英語ですか、ドイツ語ですか』と質問したところ、『馬鹿。貴様ら、日本語もわからんのか』と大喝されたという。『ぐるりっと』という副詞に『じゅ』という接頭語がついて使用されるもので、以来一井は『ジュウグリット先生』という渾名を奉られることになった。」
                (渋谷敦著「青雲遥かなり」より引用)

 高山歯科医学院(現東京歯科大学)の講師時代には、かの野口英世とともに教べんを執った仲であり、野口のフィラデルフィア渡米にあたっては、10年前にフィラデルフィアに留学した正典が、公私ともに大きな影響を与え、支援したと思われます。交友関係者は多岐にわたり、東京都歯科医師会、日本歯科医師会、日本歯科医学会の創設にも貢献しました。1929(昭和4)年67歳で逝去。墓は、東京駒込の染井墓地と人吉の永国寺にあり、墓所には「歯科を志す」と銘した石碑があります。
 西南戦争に従軍した一人の少年は、アメリカに渡り、一生の仕事となる歯科医学を修め、日本のパイオニアとなりました。「歯科を志す」にある正典の精神は今も脈々と受けつがれています。

年 表

 年号          主な出来事           
1862年 人吉市寺町に生まれる               
1876年 両親を失う                    
1877年 西南戦争に従軍                  
    敗戦して人吉は廃墟となる             
1884年 故郷を離れて上京                 
1885年 美山貫一牧師に伴われて渡米            
    ヴァンデンボルグ家に雇われる           
1889年 フィラデルフィア・デンタルカレッジ入学      
1891年 フィラデルフィア・デンタルカレッジ卒業      
    DDSの資格を得て同市ChrryStに歯科医院開業
1892年 オレゴン州ポートランド歯科医師会の招きで赴任   
1894年 日本へ帰国                    
1895年 高山歯科医学院講師となる             
1896年 亀山テイと結婚                  
    無痛麻酔薬のテスト「金冠歯」等の研究論文発表   
1897年 歯科器械等購入のため再渡米            
1899年 この頃野口英世とともに高山歯科医学院の講師    
1900年 文部省医術開業試験委員拝命            
    野口英世渡米                   
1906年 次女愛子病死                   
    次男貞次病死                   
1908年 宮内省侍医寮御用掛拝命              
    のち二十余年間勤務                
1927年 宮内省侍医寮御用掛辞任              
    叙従五位                     
1928年 野口英世死去                   
1929年 一井正典死去                   
    東京駒込染井墓地に葬る              

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